修験道と寺子屋
清光堂使われていた教科書類 清光堂で使われていた教科書類
修験道と寺子屋
 修験道とは、日本古来の山岳信仰をベースに仏教や神祇信仰、道教、陰陽道などの要素が加わって形成された宗教で、その信仰は山伏という人たちによって広められました。
 その後、都市や農村に定住するようになった山伏は、当山派と本山派に分かれ、17世紀以降は次第に組織化されていきます。清学院は醍醐寺三宝院門跡を棟梁とする当山派に属し、江戸時代を通じて修験道の活動をおこなっていました。
 近代に入り、明治5年(1872)に明治政府から「修験禁止令」が出されますが、清学院は堺とその周辺地域の庶民信仰と密接につながりつつ、1960年代まで配札などをおこなっていました。
 また、清学院は江戸時代後期から明治5年まで「清光堂」として寺子屋が営まれていました。現在も子どもたちが実際に使っていた天神机や『十二ヶ月文章』、『堺町名・日本国尽・女文章・京名所』などの寺子屋教科書類が伝わっています。
 堺には江戸時代後期、清光堂を含め20箇所前後の寺子屋が商工業者の子どもを対象に開かれていましたが、寺子屋の現場がのこされているのはめずらしく、貴重です。