井上家と大洲藩
火事羽織 火事羽織
井上関右衛門家と大洲藩
 井上関右衛門家は、江戸時代を通じて伊予国大洲藩(現在の愛媛県大洲市)加藤家と深いつながりを持っていました。
 戦国時代末期、加藤光泰が甲斐国を領有した頃に、井上家が仕えたのがはじまりです。その後、井上家の兄弟のうち、兄はそのまま主君に使え、砲術家だった弟が堺に来て鉄炮鍛冶になったといわれています。
 承応2年(1653)鉄炮鍛冶井上家当主・八兵衛は、その気ぜわしい(せっかちな)性格から、二代藩主加藤泰興から「関右衛門」の名を賜りました。
 加藤家との関わりは、年頭の挨拶、藩主の代替りや結婚の祝詞など多岐にわたります。寛政9年(1797)には第8代当主関右衛門吉次の息子である賢次が大洲に出向き、献上筒で撃ち取った鴨を藩主から拝領したうえ、鹿狩りに御供し、藩主の近くで能を鑑賞するなど大いに面目を施しました。
 廃藩置県による加藤家の東京移住以降も、第11代当主関右衛門壽次は東京を訪れた際には挨拶に出向いており、堺名産の緞通も献上しています。
 また、井上家の仏壇の上段には、加藤泰興以降の歴代藩主の位牌が十基まつられています。