敷地と建物
鉄炮鍛冶屋敷の敷地と建物
鉄炮鍛冶屋敷は、紀州街道西側の中浜筋に東面して立地し、その外観は歴史的な町並みを構成する重要な景観的要素となっています。敷地は、東側の中浜筋から西側の浜六間筋までを一区画とする広大なものです。敷地内には、主屋に隣接して座敷棟、敷地西側に、道具蔵、俵倉、附属棟等が建ち並んでいます。
元禄2年(1689)の「堺大絵図」や井上関右衛門家に伝わる「屋敷絵図」、元禄10年(1697)と明治3年(1870)の「中浜壱丁目水帳」(土地台帳)などからは、屋敷内の間取りと屋敷地の変遷を確認することができます。
これによれば、元禄2年以前は、表口6間の屋敷地であったものが、鉄炮鍛冶としての井上関右衛門家の地位の高まりと共に徐々に拡大し、文政8年(1825)には表口17間半と、現在の敷地と同じ規模となります。
また主屋と座敷棟は、建築年代の異なる4棟の建物が連なる形で構成されています。最も建築年代の古い場所は、主屋のうち土間部分とそれに面する座敷部分です。
主屋には職人としての生活空間以外にも、みせの間や座敷空間、鉄炮製造の最終工程として仕上げを行っていた作業場などがありました。
主屋の土間を通り抜けた場所には鍛冶場が建てられています。
敷地の変遷と共に、鉄炮鍛冶職人の職住一体の屋敷構えが良くわかります。